2008年05月09日

「浅草オペラ」は大衆芸能にあらず

大正時代に東京・浅草で一世を 風靡 ( ふうび ) した「浅草オペラ」の台本や楽譜など約200点が都内で見つかった。 大衆芸能として一段低く見られがちな浅草オペラだが、「椿姫」「ファウスト」などが原作に忠実に演じられた本格的な歌劇だったことが裏付けられた。関東大震災(1923年)で劇場が崩壊、資料が散逸するなどして、ナゾの多かった下町歌劇の 全貌 ( ぜんぼう ) が姿を現した。

資料が見つかったのは、お茶の水女子大教授などを歴任した作曲家・小松耕輔(1884〜1966)の遺族宅。唱歌の作曲で知られる小松だが、浅草オペラでは「若松美鳥」「小松玉巌」の名で翻訳や編曲にかかわっていた。

 台本は9作品が見つかり、ベルディ作曲「椿姫」やグノー作曲「ファウスト」など数点は全幕分がそっくり残っていた。オーケストラ用の楽譜も多数。バイオリンやチェロ、クラリネットなどパートごとに分けられたものが、作品ごとに茶封筒に納められていた。椿姫は台本も譜面も完全にそろっており、舞台で再現することも可能だという。

 浅草で上演された際の椿姫のプログラムや、俳優が自分のせりふだけを写し取った「書き抜き」と呼ばれる紙の束も一緒に保管されていた。

これらの資料の分析を進めている早稲田大演劇博物館の中野正昭研究員が特に注目しているのは台本。椿姫の場合、主人公のビオレッタをはじめとする登場人物の名前はそのままで、ストーリーも全編原作通りに描かれている。

 浅草オペラに詳しい劇作家・清島 利典 ( としすけ ) さんによると、浅草オペラが本格的な舞台だったことは語り継がれていたが、大正末期になると、芝居に踊りを付け足しただけの舞台までもがオペラの看板を掲げるようになったため、浅草オペラも大衆芸能に過ぎなかったとの誤解が広がったという。

 清島さんは「今回の資料は、欧米並みの構成で、質の高い作品が浅草で上演されていたことを裏付けるもの」と話している。

 日本初のオペラは明治末期の1911年、帝国劇場で上演された。イタリア人音楽家を招いてオペラ歌手を養成するなどして日本に定着させようとしたが、当時の富裕層からは見向きもされず、客入りが悪いことから撤退。行き場を失った役者たちが流れ着いた先で人気を博したのが、浅草オペラだった。 (読売新聞)


posted by mk at 18:26| 日記